大西英隆先生随筆

剣の大道(直心影流第十七代 大西英隆先生剣道随筆より)

 

はしがき

 

 大東亜戦争に際し敵膽を寒からしめた斬込隊の偉力を恐れ、日本魂の発現である特攻隊の物凄き体当たりを再現せしめぬ様にと、進駐軍命令を以て武士道の精神である剣道を禁止すると共に、世界万邦にその比を見ない卓越せる宝器日本刀を悉く提出せしめて没収し、東京都だけでも六万数千振の日本刀中、再三進駐軍と折衝して三千本を文化財として保存することとし、他を全部東京湾の海中に没し去ってしまった。惜しみても余りあることである。同時に終戦を契機として娯楽、スポーツは急激に普及し、最近剣道も次第に復活しつつあるも、スポーツの一種と誤認し又は体育とか意思の鍛錬とか考えられている。

 古来文武両道と称せられ、剣道は心身修業、人格陶冶の大道とされてきた。尚剣禅一如とか、神武不殺とかの語の示す通り、剣道は仏教、神道と究極に於いて一理にして、同じ高嶺の月を見るものである。 剣道は生死に直面して一瞬に生か死かに岐れる真剣の修業で修養の近道である。従ってテニス、野球等のスポーツとは自ら趣を異にし、勝負を競い技術を磨くとか、単なる体位向上とか意思の鍛錬とかを目的としたものではない。全く類を異にしている。                

 以下順を追って剣の大道を鮮明致したい。

 

(一)赤子の心  

 

   二宮尊徳先生の三才報徳金毛録中に明示してある如く、凡そ宇宙間の一切の万象は一円一元の大極から開闢し将来無窮に開闢を続けるもので極地に達すると最初に戻って来ることは春夏秋冬と四季の変化から、水、水蒸気、雲、雨と変化し、雑草花実と自然界も人類の心情に至るまで一貫した真理である。

 人も修業の極致に達すると赤子の心と相通ずるものがある。本来清明の恒心は赤子の心に包含する特性と一致する。何人も赤子から成長する。卵の中に鳥となる一切が包含され、大粒の種の中に天を摩す大樹となり、地中深く根をはる一切の素因を包含している。

 この各人の包含する天性即ち明徳を発揚し、徳器を成就する道が剣道である。

 純真な心、天真爛漫、ただ自己のありのままな純な心、すみきった、はりきった、倣ることなく、謙ることなく、少しも偏癖のない天空晴れ切って一片の雲もない、大海湛えて微波もない、春の野にただよう春霞の様なふんわりした豊かな心、この純な心が剣道修業の基となる心であると共にまた修業の究極の心である。剣聖の心境と赤子の心とは相似たるすがたである。この赤子は次の十の素因を包含する。  

 

    大胆不敵(不動心)

 

 「思いなく又恐れなき心あらば

    虎さへ爪のおくところなし」(伝書より

 あるところに夜強盗が入った。眠っている夫婦を起こそうとすると、今まで眠っていた誕生すぎたばかりの子がパッチリと眼をあけて強盗の顔を見て「ニコッ」と可愛いい笑顔を見せた。強盗は少し慌てた。しかし赤ちゃんの笑顔があまりに可愛かったので、つい「ニコッ」と笑った。すると赤子は紅葉の様な手を出して、しきりにダッコしてほしい様子をした。強盗は遂に商売にならず退散した。(実話)

 大森に転居した七十数才の知人が朝早く銀座の店に通って来ることとなった。毎朝近所の犬に吠えられて次ぎ次ぎと犬に吠えられ続けて閉口して困り抜いていた。この老人は生来犬嫌いであった。この老人は偶々「純真」な気持ちで「犬さんお早う御座います」と挨拶する様な心で、犬を迎えなさいと教えられて実行して見ると全然犬に吠えられなくなった。犬はすごすごと戻って行った。

 昔徳川秀忠将軍に朝鮮から虎を献上して来た。剣道の達人であった柳生宗厳は気合を充実して虎のオリの中に入ると、虎は気合に呑まれてうずくまって了った。沢庵和商は平然とオリの中に入って行って、手につばをつけてさし出すと虎は猫の様にごろりと横になってベロベロとこれをなめた。

 幕末の松平康年先生は榊原健吉先生の高弟であった。西南戦争のとき官軍の抜刀隊長として出征し勇名を轟かし帰京後警視庁に警視として入り、後転任して北海道の警察部長となった。明治十五、六年頃であった。ある日馬上にて旅行中大熊に出遭った。馬はすくんで何んとしても動かない。馬はブルブルと震え出した。そこで馬から飛び降りて腰の一刀を引抜いて上段にふりかぶって気合を充実し、来らば一刀の下に切り棄てんと熊を待った。熊はジリジリと退って行く、松平先生が一歩進むと熊は一歩退く、遂に熊は一目散に逃げ出した。すくんで動かない馬を励まして山中を突破した。

   青柳熊吉先生(後の信太歌之助)は北海道にて六尺豊かな大熊に突然出遭った。熊は立ち上がって物凄い気勢で襲いかかろうとした。青柳先生は友人に会ったように手を挙げて「オーイ」と声をかけた。熊はおとなしく自分の傍に来た。ひょいと熊にまたがり、馬の様に乗り廻て山中を突破して人里近くに来てから厚く礼を述べて熊と別れた。

 もと東京商科大学剣道師範であった故山田次朗吉先生は或る日学校で学生に稽古をつけられた後で道場の外に出られると、大きな犬がつないであったので、ツカツカと其の側により犬の頭をなでて居られた。すると飼主は顔色を変えて走ってきて「先生!危ない、危ない」と叫んだ。然し犬は気持ちよさそうに従順になって居るので、飼主は呆気に取られた顔であった。其の犬は非常に獰猛で近寄る人毎にかみつく犬であったそうである。

 先生は常に「猛獣と雖も自己に害心のないことが通ずれば害をしないものである」と云われていた。先生の前では如何に乱暴な狂犬でも猫のように従順であった。

 この境に入るには事に臨んで心を動かさぬ様心懸け、剣道稽古の際、刺撃の間に精神の動揺、気合の喪失せぬように努め、進んで日常生活に際して如何なる困難にも敢然として喜び迎えるように実践する。

 生死の巌頭に立ち白刃を振りかざして果たして心気の転動することなく、平生と少しも変らぬ心で対処できるかと反省工夫を重ねて行くと何時とはなくこの境地が打ち開けて不動心を体得するものである。

 

   純真無垢

 

 ものを汚がったり、いやがったりするのは心が汚いからである。赤子はキレイも汚いもない。真白い紙の様な純な心だから、きたながることがない。何んでも平気でつかみ口へ持って行く。篤農家はくそおけのかげんをみる。少しも汚がらない。大切な肥料を尊重している。いやがる、きたながる、おつくうがる、凡て心が純真でないからである。

 山田次郎吉先生の門下に川島堯先生と云う剣豪があつた。「剣道修行の第一は食物の好き嫌いを克服することからである。食物の好き嫌いのある人は、交る人、接する人に愛憎好悪の甚しい偏癖があるもので、そのままでは清濁併せ呑む棟梁の器とはなれない。先づ以て食物の修行からだ」と教えられた。

 早速大嫌いな食物である鰌からと決心した。当時は見ても嘔吐を催す大嫌いの味噌汁から開始した。朝昼晩と毎日毎日鰌汁の他は副食を食べない。最初は意地にも我慢にも咀嚼など思いもよらず、眼を白黒させ、丸呑みと云う始末、その結果嘔吐、腹痛、下痢と苦しみ、全く命がけの修行であった。是れが修行の第一歩、幼稚園である。十日目には半病人の様に弱つて来た。ここぞと思つて毎日毎食毎に続けること三ケ月!次第に鰌汁になれて好きになつて来た。四ケ月目には大好物となつた。と同時に食はず嫌いの納豆も塩辛もコンニャクも食べれる様になり、何時しか大好物となつた。何んの修行も一つの難関を突破すると、他の難問も同時に解決することが出来るものである。人に対する好き嫌いもとれ、何人からも親しまれる人柄となつて来た。人の欠点が目についたり、人の不足を思つたりするのは、自己が至らない証拠である。

 剣道にては敵(相手)を賓客のように迎へ心を尽くして相対するものと教へられる。相手を恐れたり、侮つたり、打ち勝とうとか、負けまいとか一切思はず気力を充実して清明心を以て相対するのである。否一切の物事、人に対して尊敬し至誠を尽す純真無垢の心を磨くことが剣道の大道である。

 

   直観力

 

 強盗がある夜押し入ろうとして窓側まで近づいた。突然赤子が火のついたように泣き出した、家人は目を醒ましたらしい。遂に目的を達せずして退散した。

 柳生但馬守が小姓に刀を持たせて邸内の庭園を散歩していた。突然殺気を感じた。振返って見たが、小姓の他に人がいない。何かの迷いかと再び散歩を続けると又しても殺気を感じたが誰もいない。はてと思って小姓の顔を見ると、小姓は「申訳ありません。実は私がどんな天下の大名人である先生も、後から斬りつければと思った途端、後を振返ること二回、橋に一歩足をかけた時も、今ならば如何に名人でも斬り伏せられると思った瞬間、先生には橋の下を窺い更に私を見たその目には、ただ驚き入るばかりです。何んとも申訳ありません」と頭を下げた。さては小姓の殺気であったかと柳生但馬守はニッコリと微笑した。

 人として生まれた以上は、何人でもこの純粋な直観力を持っているものである。何時でも何処でも、何事に対しても常に一瞬にその解答を捕へる心は万人共有であるが、邪念妄想に蔽はれて次第にうすれて行って了った。

 「人の将に死せんとするや、その言や良し」と云われる通り、生死の境に立ち至ると素晴らしい知恵が出たり、窮地に立ったとき妙手が生まれたりするのは、その時正常心に達して直観力が発言して来るからである。

 剣道は真剣味を以て必死三昧の稽古をするとき、すばらしい直観力が出て来る。剣道の修行は気・剣・体一致の錬磨である。気付くとすぐする。目が覚めるとすぐ起きる。思うことはすぐ実行し、思ったことはすぐ云う。言って無駄なことはすぐ思いを棄てる。日常も道場修行と同様に心得て日々雑念をすてて行くと、この直観力が強く続出して来る。

 東大農学部を卒業して愛知県安城に勤務中であった加藤完治氏(現在茨城県内原の日本高等国民学校長)が所用にて上京された。つい所持金を使い果たして安城へ帰る旅費が無くなって了った。平素は叔父の太田氏を訪れて金を借りるのであるが、在学中の剣道師範山田次朗吉先生に会いたくもあったので、今度は一つ山田先生にお借りしようと思って、御徒町の先生宅を訪れた。

 加藤完治氏は他人から借金したことは一度もなく、勿論山田先生に金銭を借りた事などはなかった。

 お宅に参上して、お辞儀をして、頭を上げてまだ一言も云わないうちに、先生は「オイクラ差し上げましょうか」と尋ねられた。先生に何も云わなくてもチャンとわかって了うのである。これには加藤氏もすっかり参ってしまった。

 「先生わかりましたか」と聞くと、山田先生は「わかりました」と云って三十円お借りしたことがあった。

 山田先生は常に云って居られた。「本当に明鏡止水の心境に到達すると鉄砲の弾丸も当るものではない。心の働きは弾丸の動きよりずっと速いから。ここに坐って居て、太平洋の波の音を聞くことが出来ますよ」と。

 台南の剣道師範川島堯先生は剣道と弓道を併修せられ台湾随一の剣豪として、評判高い範士であったが、更に剣道の奥義を体得しようと、求道心に燃えていた。偶々台北の大日本武徳会支部で花蓮港庁剣道指南の小島正志氏と云う千葉県出身の人から、同県出身の東京商科大学剣道師範の山田次朗吉先生の噂を聞いて、この先生こそ自分が教えを受く可き偉大な先生だと思った。

 大正十四年五月京都、武徳会本部の大会に出場した折、山田先生に教えを受けたいと思って、門人二名を同伴して上京し、早速突然紹介もなく下谷御徒町の御住居に先生をお訪ねした。山田先生は御自身左側の座敷の障子をあけてこの無断未知の客を迎えて、

 「今朝来待って居りました、今朝洗面して日神(太陽)を拝した時、遥か南方から珍客三名来ると感知したのです。お上がり下さい」と一見全く旧知の如く聊かも隔意のない真情溢るる温容に接して、不思議の電気に打たれた様な云い表わすことの出来ない懐かしさを感じたとのことである。

 同行の門人は山田先生が人違いをしたものと思って躊躇し、先生から再三催促されて座敷に通った。座に着くと同時に既に整えて置いた茶菓を四人分出された二には驚いて了ったとのことである。

 私共が学生時代に山田先生に面会すると、夫々疑問に思って尋ねようとすることを、質問しない内に懇切に説明されたことを幾回となく体験した。

 私の友人に細野佐一君と云う二年上級の学生が、或日叔父と喧嘩をしてどちらの言い分が正しいか、山田先生に御判断願おうと下谷の御住居を突然お訪ねした。丁度先生は御在宅で喜んで細野氏を招じ入れ、挨拶をすますと、「君は今日上長の者と争いをしたのであろう。それは聞かなくてもわかって居る。君の方が間違って居る」と未だ細野君が一言も申上げないのに、同君の心底を見抜いて機先を制して厳然と云われたのに一言も無く、ぞっと感じ先生の直観力の偉大さに驚き入ったと語られた事があった。

 直観力も無限に発達して神通力とも云う可き偉大崇高な偉力を発揮するものである。

 

   感応力

 

 母親が忙しいと赤子は落付かず、心配事があると寝つかない。赤子が夜泣きする、遠方に居た父の重態を翌朝知らされた。両親のいさかい、不仲のとき赤子は発熱したり下痢をしたりする。赤子はよく周囲の状況に感応する。人みしりをして他人には絶対に抱かれない赤子が、夫婦がいがみあって不仲のとき、他人に抱かれてすやすやと眠る。誠によく周囲の事情を察知し、これに感応する力を有するものである。

 剣道も修行して行くと、相手が何か思つたり、あわてたり、急いだりする瞬間に感じて打ち込んで行く。こちらが躊躇したり、迷つたりする刹那に打ち込まれる。かくして次第に感応力が発揮されて行く。剣に限らず物事に熱心な意気込みを持つて尽力して行くと、適時に思いつきがフト心に浮かんで妙策を建てて行くことができるものである。

 二宮尊徳先生が桜町で復興に努力中のことである。夏のある朝、食膳につけられた茄子を食べた瞬間秋茄子の味がする。ハッ「凶作」と心にひらめいた。箸を置いて三村の村人に凶作の備えとして稗を蒔く様指令して準備を整えた。

 果して天保四年秋大凶作にして餓死者続出の折、桜町にては一軒の窮乏者なく他町村に対しても供出し、多数の窮民を救はれた。更に天保七年の大凶作を前知して策を講じられた。

 山田次朗吉先生は剣道を修行すると共に、剣道に関する図書を集めること数万巻、これを精読して、「日本剣道史を作つて剣道の正しい歴史と故人の苦心して体得せられた剣の道を後世に伝えたい」と念願していた。大正八年夏に大正十二年九月の大地震を感知して「新時代」という雑誌に発表すると共に大正十一年中に日本剣道史の原稿を完成し、数万の書物は焼失したが、その粋を集めた名著「日本剣道史」は出版せられた。

 至純至誠を竭して物事に打ち込んで行くと、偉大なる気魄、感応力が養われて行くものである。真剣な気持ちで剣道を修行して行くと、人に感動を与える精神的貫通力が養成せられる。

   東京高等商学校(今の一橋大学の前身)の有備館道場落成記念に際して、山田先生と柳広哲氏にて真剣で小太刀の型を勤めることになつた。当日渋沢栄一翁を初め朝野の名士多数参列列せられていたが、両人静々と中央に進み出ると、満堂寂として声なく居並ぶ人々に多大なる感動を与えた。正に至誠天地に貫通する意気を感ぜられた。

 山田先生御逝去の四十数日前、昭和四年十一月二十三日一橋道場にて山田先生と私にて刃挽の型を勤めた。当日は一橋剣道部の剣道大会にて都下各大学の剣道選手を初め師範多数参列の下に行われたが満堂の人々、暫しの間は気合と閃光に酔わされ、我を忘れて見入つた。日本武道の精髄、静動一如の妙技は先生によつて遺憾なく挙示された。すさまじい気魄、満堂を圧し、威風は形容する詞を知らない程であつた。

 この感応力、気魄は日常百般の事に当たつても応用し得る偉大な精神力である。

 

   智識に湧出

 

 人は生来各々独特の天徳を有し、教えずして乳をのみ、母を慕い、父を懐かしむ。

 直心影流の小笠原源信斎の門に針ヶ谷夕雲出で、虎伯禅師について悟道に入り、無住心剣流の開祖となつた。その門弟に小田切一雲という名人が出で空鈍と号した。その著書「兵法徳悟」に

 「人生れて習はざれども自然になすこと多し。則ち天徳にして天性の所作なり。此の良能に任せて敵を討つべし。習ひを以てするは私意也。右良能の二徳小児二・三才まで愛用す。五六七八才より漸々に失ひ、却つて学智、悪智了簡種々に増長し、それに応じて所作生じ、自然天性の良智良能を失うなり。当流にては何事も不求。唯自己の良智良能に立帰り、本づく工夫を尊要とするなり」と説いている。

 二宮尊徳先生は一身を捧げて職務に没頭し、至誠を竭している中、良智開け、天地自然宇宙の真理と人道を悟行した。

   声もなく臭もなく常に天地は

       書かざる経を繰り返しつつ

   おのが子を恵む心を法とせば

       学ばずとても道にいたらん

   父母もその父母もわが身なり

       われ愛せよわれを敬せよ

 更に遡って我生命の源は父母、祖父母、祖先と貫流し水源を神仏、宇宙の大生命力を直入している事を悟り、我身即ち仏であり、神であり、天地万物悉く仏性ありで、この地即ち浄土であり、神国であり、山川草木皆仏神であり一木一草光を放ち、そのままにて歓喜常楽の天地啓け、叡智渙発の境地に到着した。

 その他の文化の発展、種々なる発見発明もこの天徳の活用によつて発現して来るものである。剣道に限らず人が至誠を竭して物事に没頭して努力すると、この大智識が発現して来るのである。生死の厳頭に直面し必死三昧の修行である剣道もこの境地に到着する近道である。 

   幕末の英傑坂本龍馬は少年の頃郷土土佐の学塾に通つたが学業進まず学友に嘲笑されたり揶揄せられる程の愚鈍で天分の萌芽を認めるものもなかつた。偶々学友の嘲笑によつて争い中退して江戸に行き、千葉周作の門に入り剣を学ぶや、次第に沈蔵せる天稟が輝き出し、遂には俄然猛烈なる稽古と共に天徳発現し来り全く風格を一変するに至つた。

 西郷南洲は「余多くの天下の有志と交わつたが、度量の大なること龍馬にしくものはない。彼の度量は到底測り知る事が出来ない」と賞賛している。陸奥宗光も「龍馬は西郷より一層大人物と思われた」と云い奇機自から湧出する偉才と称している。全く熱烈に剣道修行をした結果である。

 幕末英雄豪傑続出の中特に異彩を放つた坂本龍馬が西郷、大久保以上の第一流の人物となつたもとが剣道修行にある事を思えば、剣の効用も実に偉大と称す可きである。

 江戸幕府中にも多数の人物があつたが、その中男谷精一郎信友は百俵高小十人の家を継ぎ、軽き地位の人であつたが、剣道を直心影流の団野真帆斎に学んでその真髄を体得して、先生の亀沢町の道場を引受けて門下の子弟を誘導した。次第にその人物才能を認められ、御徒士頭千石となり、講武所の頭取、奉行を勤め、御旗奉行と親衛隊長の要職を経て下総守となり禄高三千石の旗本大将と昇進した。性質温厚柔和、思慮深く先見の明あつて、国防の策を樹立し、北海道の防衛を厳にすることを献策している。門下からは榊原鍵吉、島田虎之助、勝海舟等の偉人が輩出した。その辞世は、

   うけ得たる心のかがみ影きよく

       けふ大空にかえるうれしさである。

 

   無限力

 

 人は生れたくて生れて来たのではなく、たのんで生んでもらつたのでもない。自分の欲するままに活きているのではなく、各自を超越する偉大な無限の力に依つて活かされ活きているのである。

 他面食べたものを消化して肉とし血となり活力となるのも、各自の自由ではなく、天然自然の大なる力の働きが各自の中にあるのである。この偉大無限の力の本源によつて活かされ、息即ち呼吸によつて寸時の休みもなく、この本源と往来しているものである。

 赤子を見るとみな腹部が張大して胎息である。これこそ呼吸の本然の姿であり、初めであると共に窮極に於いても胎息が秘訣である。嬰児時代の胎息は次第に生長するに従つて、何時とはなしに破れ、肩や胸で呼吸する様になり、身体虚弱となる。日常から丹田に気力の充実を計り、所謂腹式呼吸をして行くと遂に胎息に達するものである。この呼吸に就て一般に関心が少ない様であるが、人生は出生の第一息から始まり、臨終の最後の息を引きとる間をいう。

 食事は七日や十日断食しても、生命には別状はないが、十分間も呼吸をやめれば生命はなくなる。正しい呼吸をする人は長生きをし、又堅実な生活をなし得るのみならず、呼吸は身体の諸機関を運転する原動力であると共に人力の源泉をなすものである。又呼吸数の少ない程身体が強く、多い程身体が弱い。

 普通の壮年者は一分間に十三四回から二十三四回迄で、これ以上は病人である。

 荘子は「真人の息は踵よりし、衆人の息は喉よりす」と云い、「息長ければ命長し」と云われている。

 昔両国橋を一呼吸で渡り得てこそ初めて武芸者と云われたものである。

 恐れ、怨み、哀しみ、不平、煩悩の情が心に起きると呼吸が乱れる、感情が高まると呼吸も急迫し、肩の息となる。情静まり気穏やかになると呼吸も平静となつて来る。

 撃剣が剣道となつたのは阿吽の呼吸を手に入れて道となつたのである。(山田次朗吉先生著「日本剣道史」二十二頁)剣が術から道になつたのは実にこの呼吸法の修練によるものである。

 「戦国時代に武人の多くは剣を学ばなかつた。自己の腕力に頼つて敵を打ち倒す内に自然と修練されて行つたが、心ある者はひそかに剣術を修行して、阿吽の呼吸を手に入れ千軍万馬の間に往来奮闘して息切れしない事を知つた。たとえ大力無双の荒武者も時間の経過に従つて疲労が甚だしかつた。然るに撃剣者は呼吸の連続が整正で疲労が少ないことが武士仲間に知れわたつた。茲に始めて剣道は敵を斬るためばかりの業ではなく、兵の精鋭を尚ぶ気力に大関係のあることを知り始めた。実に呼吸によつて剣は術から道へと向上して行つたのである」と記されている。

 剣道に限らず、弓道、書道、その他少なくとも道と名のつくもので、呼吸法を忘れて道となるものはない。

 古来神社仏閣の入口に高麗犬をおき、仁王をおいて、一方は「アー」と大きな口を開き、他方は「ウン」と口をむすんでいるのは阿吽の呼吸を象徴し、これが本殿、奥院の入口であることを象徴しているのである。「アー」の息を吸い入れて、天地万象あらゆるものを吸いこんで自己と一体となり、「ウン」と息を吐くとき、身も心も全部吐き出して、自己が宇宙一杯にひろがつて天地と一体となる。

 阿でも吽でもないその中間、呼吸のとまつているときが神なり仏なりで、人が至誠を竭くして神仏に祈りを捧げるときは息はとまつている。至誠無息=即ち神人合一の境地であり、天御中主神であり、天上天下唯我独尊の悟りの境地、隻手音声であり、無の実体である。この天地の精気を吸いこんで神に通じ、神我融合の妙境、無念無想の境地に霊感が生れ、その実行の結果が奇蹟である。

 この無念無想の心境に投影する第一感を捉えて動じないとき、思いもよらぬ霊力が湧き起り、偉大なる無限の本源と直流して奇蹟を生じ、或いは危難を突破して九死に一生を得、妙策をたて、妙手を打ち、奇蹟を生ずる。

 古来わが民族が古事記、日本書紀に語りつぎ、云い伝えられてきた種々の奇蹟はこの理を実    践した結果である。

 榊原鍵吉先生の兜割に就ても、参加の依頼を受けて、秘かに兜を試し斬りしてもどうしても斬れないだけでなく、刀が折れたりまがったりして、到底斬り割る事は不可能だと知って再三再四参加を辞退したが、遂に御許しがなく出場と決められてしまった。

 斎戒沐浴して種々の刀を振りかざして日夜専心に兜を斬ろうと真剣の努力を続けたが、少しも切れない。遂に悲壮な覚悟を定めた。明治天皇の前でもし斬れなかったら、その場を去らず切腹と覚悟してますます倦まず撓まず練習をされた。もうこの上は鹿島大明神の御力に依頼するより他はない。

  思へども人の力に限りあり

     力を添えよ武甕槌神

 日夜斎戒沐浴して鹿島大明神に祈願を籠めている有様は実に荘厳襟を正さしめるものがあった。

 愈々当日となった。時に明治二十年十一月十一日。伏見宮邸に、明治天皇の行幸を仰ぎ一流の剣士を集めて兜割の天覧の当日となった。他の一流剣士は次ぎ次ぎと勇ましく出場して掛声勇ましく斬りつけたが、刀はカンと跳ねかえって、擦り傷も負わすことが出来ない。或は刀をすべらして危く倒れかかるのもあった。

 愈々榊原鍵吉先生の順番となった。先生は無念無想一心不乱に

  思へども人の力に限りあり

     力を添えよ武甕槌神

と武甕槌神を念じつつ、静々と出場し、ずらりと抜いた胴田貫の一刀を大上段に振りかぶって、気合の充つると同時に、エイ!と叫んで打ち下ろした手練の冴えは「ズカリ」と明珍南蠻鉄桃形の八幡座の一番頑丈なところを三寸五分切り込んでいた。而も刀は少しもいたまなかった。 昨日まで一ヶ月連日連夜斬りに斬ったが、少しも刃が立たなかった兜を今は物の見事に打ち割ったのである。 至誠天に通じたのである。無限の力を体認したのである。

 

   尊厳性

 

 赤子は宇宙の本源、宇宙大生命、即ち令命から祖先を経て父母を通じて出現した尊厳な実在である。呱々の声をあげて赤子が出生すると、親は無上の歓喜の中に職業に対する自覚を生じ、深い責任感を懐かせられる。これは赤子の中に尊厳性を備えているからである。

 他面、親の死に接すると、子は厳粛なる感動を受け、間違いがあれば正常に立ち返り、純情が発露する。実に生命は尊厳にして荘厳なる宇宙の本源に直結しているから、人の生死は極めて尊厳なものである。

 信太歌之助先生は剣道修業の最終の目標は「水晶で刻ざんだ神仏の像となる様にせよ」と云われていた。

 無色透明な水晶には少しも陰翳がない。この水晶で制作した動物の像は児童の玩弄物にすぎないが、神仏の像ともなれば子供でも粗末にしない。是れは神仏の威徳が形の上に表現するからである。

 人も世に立ち、この威徳が具備すれば、接する人々は、其の全貌が見透せるので安心して親交し、断じて侵すことも侮る事もなく、皆味方となる。是を無敵の位と云う。

 然らずして一種の力と策略で成功優位を獲得しても、人盛んなる時は天に勝ち、天定まつて人に勝つの天則に漏れず、その地位は永続しない。遺るのは醜名、非難、誹謗のみ。 剣道家が気・剣・体の一致の修行を積み、姿勢を正し心気を清明にするよう行住坐臥修行にいそしむと、身体に剣気がにじみ出て荘厳さを漂わせる。

 昔、宮本武蔵が仕官の望みを懐いて尾張の城下に来たとき、向うから一人の武士が歩いて来たが、その姿勢や身構えが荘厳にして凛然としてただ者ではない。威風堂々たるその武士にすれちがい、「柳生兵庫殿ではありますまいか」と声をかけると、ニッコリ笑つて、「貴殿は武蔵殿か」と問い返したと云う話がある。

 各人の心境、境涯は自から態度に現れて、かくすことが出来ないものである。如何程美しく着飾つても、心の醜さはどことなく現われる。如何に粗末な服装をしていても、心の立派さは人を惹きつけるものである。 最近起こつた実例として、昭和三十四年七月二十四日、親子ずれの盗人が東京都下国立町の一ツ橋大学有備館道場の柔道場を破つて侵入し、剣道場にあつた故山田次朗吉先生の胸像を持ち出し、リヤーカーについて盗み出した。目方三十キロ(八貫目)あり、地金にしても相当に売れるとほくそ笑んだ。

 盗人は自宅でハンマーを手にして胸像をぶち壊そうと手を振り上げた。山田先生の荘厳な威風に圧せられ、振りあげた手はわなわなとふるえた。これはいかんとハンマーをなげすてた。再び気をとり直してハンマーを振り上げたが眼光の鋭さにちぢみ上つてハンマーをなげすてた。再び気をとり直してハンマーを振り上げたが眼光の鋭さにちぢみ上つてハンマーをなげすて、十五才になる子供に「売り飛ばしてこい」と命じた。翌二十五日、子供がリヤーカーに乗せて古物商に売りに行つて捕われた。(毎日新聞の夕刊にこの記事がのせられた。)

 これは山田先生の多年に亘つての鍛錬が身体ににじみ出て、威風堂々たる姿を作り、名彫刻師の手になるこの胸像に顕われて、盗人の心を威圧したからである。

 幕末の勝海舟先生は島田虎之助先生について剣を学び、遂にその奥義に達せられた。当時名声高かつた名人一刀流の白井亨先生の道場に赴いて、白井先生と立ち会った。勝海舟は白井先生の様子を語つて云つた。(海舟随感録一四三頁)

 「白井先生の剣法は大袈裟に云へば丸で一種の神通力を具へて居たよ。彼が白刃を揮つて道場に立つや、凛然たるあり、神然たるあり、迚も犯す可からざる神気、刀尖より迸りて真に不可思議なものであつたよ。己れらは迚も其の真正面に立てなかつた。己れは是非此の境地に達せんと欲して一所懸命になつて修行したけれども、惜乎、到底其の奥には達しなかつたよ。己れは不審に堪へず、此の事を白井に話すと、白井は聞き流して笑いながら、『それは御身が多少剣法の心得があるから、私の刃先が恐ろしく感ずるのだ。無我無心の人には平気なものだ。其の処が所謂剣法の極意の存在する処だ』と云われた。己れは其のことを聞いて、そぞろ恐れ心が生じて、中々及ばぬと悟つたよ」と述べている。

 白井亨先生は江戸中期二百年来の剣道の名人と云われている。先生は「自分の木剣の先から輪が出るぞ」と口癖に云つた。刃頭から偉大なる気魄が赫機となつて迸り出たのである。この尊厳さ、威風は姿勢を正し、呼吸を調えて、胎息(腹式呼吸)をなし、気海丹田に充実して行くと、内臓の働きが旺盛となり、邪念妄想が去り、精神作用が正純となり、判断を誤らず、威厳が次第に身について来るようになるものである。行住坐臥に姿勢を正すことから始めて躾を正し、清明心を保持して行くように心懸けて、胸をはり、ももを高くあげて堂々と歩行し、正坐をして足腰の力を養い、床に入つてからも豊かな思いをし、心を清く正しく足腰に心気を充実し、雑念妄想を排除し、油断なく尊厳さを保持してゆくと、身体に顕現して来るのである。

 茨城県内原の日本高等国民学校の河原正男先生は、四十年来校長加藤完治先生と寝食を共にして農村の子弟教育に従事して居られるが、加藤先生がひざを崩したことを見たことがないと云つて居られた。斯くしてこそ多年青年を善導し得るわけである。

 昭和三十四年九月一日から一橋大学剣道部員四四十五名は合宿して剣道稽古に熱中しているから、五日(土曜日)の午後稽古指導に来て呉れと依頼を受けた。五日午前中も多忙であつたし、九月に入つてから種々用件が多くて身体は非常に疲労して居た。国電有楽町駅から国立駅まで一時間余りウトウトと眠りながら行つた。有備館道場に入ると四十五名の学生が勢よく稽古している。約二時間この活気旺盛な猛者と稽古して、水を浴びた。数日来の疲労はふき飛んで元気溢るるばかりの我が心身の状態に驚いた。

 これは医学的に云うと、神経末端から分泌される化学的物質アセチールコリンが減少すると筋肉と神経の接触部に疲労減少が起こるのであるが、丹田に気力が充実すると副交感神経が刺戟されて、アセチールコリンが多量に分泌されて疲労減少を除去し、腹部に力を加えると、肝臓や脾臓に貯蔵されている血液が駆り出されて、毛細管に血液を送り込むことによつて、頸部神経叢を通つて脳の中枢に赤血球に富む新鮮な血液を送り込む結果、呼吸を鎮静させ、爽快な気分となるのである。

 本年八十五才の文学博士佐々井信太郎先生は風邪気味であつても、身体の具合が少し位悪くても、十五日間の講習会に出席して朝から夕方まで講演会を御自身一人にてしていると、全快して御元気になると云つて居られた。これも心気が丹田に充実して行くからである。尊厳偉大なる天地の令命に直結しているからである。

 二宮尊徳先生の早朝から夜半までの猛活動をして疲労を感じなかつたのも、大倉邦彦先生が七十九才の老齢にして疲労は怠け者だけが感ずるのだと云つて一番早く、出社して活動しているのも、気力が充実して正しい姿勢を保持しているからである。かくて人間の尊厳性が顕現して来る。

 

 自由性

 

 動物界を見ると、同種類の中には殆ど差異はなく、同年生の鰯は区別の出来ぬ程同様である。然るに人類に限つて強弱、知愚、貧富等千差万別にして非常な差異がある。

 これは人類に限り自由性を持つているからであり、且この自由性の集積するところ、本人に限定せられず子孫に伝流して行くからである。朝早く目をさましてすぐ起き、一日中働いている人あれば、再び寝ころんでぶらぶらと怠けている人もある。

 私の友人である銀行に勤めているが、非常な読書家で寸陰も惜んで読書する。往復の車の中は勿論、便所にも定めた本が置いてあつて、用便中に読むのであるが、一ヶ年には便所の中で五、六冊は読み終る。風呂場にもカバーで包んだ本が置いてあつて、これ亦一ヶ年中には数冊読み終る。各種統計書は執務の余暇に眺めている間に暗記をして了う。

 講演を依頼されると、多数の統計数字を正確に手放しで話す。他方には一向に読書もせず、記憶力も失つて読書力も減退している友人もいる。非常な元気で毎年海外にも出張し、各地旅行に会議にと活躍しているものもあればゆつたりとその日を送つているものもある。

この性質及び才能は自由性によつて著しく発達又は退歩する丈けでなく子孫にも影響を及ぼし、祖孫に一貫する特性となり、生まれながらにして或は音楽、書道、画才に非凡な才能を有する天才児があると共に、低能児、不具者の出生もある。物質的貧富の差に限らず、精神的にも特質、個性として著しい変化差異の生ずるのは皆この自由性に起因する。剣道修行は道場内だけでない。平常が道場であり、道場の稽古が平常と同じでなくてはならぬ。平常生活に於て気付いたらすぐ行う。目が醒めたらさつと起きる。思つた事はすぐ云う。言つて甲斐なきことはさつと流して忘れる。心中は常に何のこだわりもない。一片の雲もなく明朗闊達、光風霽月、諸事流れる如く処理してあとに残さない。このとき万事が旨く行く。思う事叶はざるなく、孔子の所謂心の欲する所に従つて

矩を踰えない自由境に到達する。剣道で云えば活殺自在、無碍の心境に到達する。淡々として神武不殺の境地―大自由境が現出する。

 

還元性(恩、報徳) 

 

  赤子は父母を慕う。人窮すれば父母に還る。父母の恩を感じ、祖先に謝し、天地の恩に深く感謝し、更に師の恩、国の御恩と多くの恩のうずの中に生活していることを感ずるのは、万人の天性である。ここに二宮尊徳先生の報恩の基盤がある。剣道修行に於て道場に神だなを設け、稽古の前後に拝礼し、師を尊敬する。師を尊敬すればする程上達し、遂には師の一切の才能智能を我が心身に受入れることが出来る。日常の動作を初め、心境までも次第に似て来る。尊敬こそは上達の秘訣である。

 

愛情(慈悲)

 

 還元の逆が愛である。慈悲であり、万人共通の天性の徳性である。母性愛を中心とする家族制度の中に育成せられた日本民族は世界に冠たる日本刀を創り上げた。凶器は宝器へと向上した。これを使うもの亦殺人剣を活人剣と変じた。遂に無刀にまで躍進をしたもとは至純な愛情である。

 

むすび 

 以上赤子の心の中には

 不動心、純粋無垢、直観力、感応力、大智識の湧出、無限力、尊厳性、自由性、報恩、愛情の十の素因を包含している。この若芽を育成する道には剣道、書道、茶道、華道等各種の道があるが、私は剣道がその近道であり、日本民族が築き上げた独特の大道であると確信する。心のふるさと、万人の本性の中に以上の雄大荘厳、玄麗妙なる本質を内包している事を自覚し、育成に努めて行きたいと念願する次第である。

 

(おわり)